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<な>成り行き
 出来事の生じ来り、その推移する様。必然でもなく偶然でもない、あるいは必然と偶然の対立を超えて、現にあるがままを捉えていう。
 科学的な実験の場合のように、出来事は一定の原因があって生じた結果である限り、必然であるといえる。しかし、種をまいたら芽が出たという場合を例にして考えてみると、芽が出るか出ないかは、複雑な要因の積み重ねによるので、その要因の組み合わせがどういう形で行われるか、その一回一回は偶然でしかないとも言える。
 人間の意志を越えたところで生起する複数の因果系列の出会い(偶然)を神の意志によるとして必然と見るのが西欧思想の基本的立場であろう。それに対して、東洋では出会いを縁ととらえる。「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」何の関係もない出来事が縁という風呂敷に包み込まれて、そこに出会いが生まれる。これは必然とも偶然とも違う、自然の成り行きというほかない。
 神仏といえども成り行きの産物と受け止められて、その出所を追究しないのが東洋流である。この世界の創造主でも全知全能でもありえない。
 何事も巡り合わせという時の、金光教祖の目もまた縁でとらえていると見れば、理解しやすいように思う。天変地異が神の人に対する警告なり賞罰なりとして、神の意志によって引き起こされるというよりも、目前の出来事に出会う中で、その出来事をどう生かすかという問いかけを受ける風に私には感じ取れる。成り行きを重んじる態度は、ありのままをありのままに受け入れて、無理のない、楽な生き方につながると言えないだろうか。

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