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<か>神代 かみよ
 神と人とがあいよかけよの関係に生きて、神も助かり人も立ち行くことができる世界をイメージして「神代」と表現する。それに対して、神を無視し、人間の力をのみ頼む現状を指して「人代(にんよ)」という。
 一般には、日本の始め、神が統治したとする記紀神話の時代を神代というが、金光大神はその語を借りて自らの信仰の目指す理想の世界を表わしたもので、同じ語を用いても、その意味する内容はまったく違う。
 金光大神は、この道の信心について「神人と書く」と述べている。いのちの成り立つのに欠かせない新陳代謝という営みは、他のいのち(総体としては天地のいのちつまり神)によって支えられ世話になっているという否定しがたい事実を伴っている。そこが明確に認識できていないために、外界のあれもこれもが自らの存在の手段としか見えず、あるいは不都合な事態からは自らの存在を脅かすもののように受け止めてしまい、その関係が険悪に陥る分、いのちの支えが危うくなる。いのちの持つ可能性を世界全体の立ち行きに向けて発揮できないこのような状態は難儀そのものであるが、いのちの成り立つもとの事実に立ち返って、世話になる働きの一つ一つにお礼を申すことから始めて、自他の関係の結び直しに努めるところから、「神人の道」が実現されるのである。自らの存在が自らの都合で成り立つわけでなく、一切が神の願いに依拠し神の願いを実現するための発展途上にあるものと位置付けられる。この道による助かりは、生きる主体として育つこと、つまり神の願いの実現に向けてその担い手として力を付けていくところに結実するといえよう。
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