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<ひ>百日信行
 百日間の修行。
 金光教祖金光大神は、神命により1875(明治8)年11月15日(新暦。以下同じ)からと、1883(同16)年7月2日からと、2回百日信行を行ったとされているが、その具体的な内容は明らかでない。ただ「心でする行である」と語ったと伝えられている。
 世に開祖と呼ばれる人の多くは、ある時点で啓示を受けて一挙に変身し、いわば救済者として完成の域に立つところからスタートする例がほとんどだといってよい。それに比して、金光大神は、1859(安政6)年11月15日46歳にして神命を受け、家業(農業)を廃して神前に端座し取次ぎに専念する生活を始めたが、その時を境に前後でいかほど信心上に飛躍とか断絶とかを来たしたようにも見えない。その以前から取次ぎを願い出る人に対してすでに救済者の役を担っていたし、取次ぎに専念する時点でにわかに神との関係が改まったというふうには見えない。見かけ上は、当時各地にあった金神祈祷者と呼ばれる人々の行いと類似して大差なく、ただ日柄方角にとらわれなくてよいと説き、日常生活において天と地の恵みに心を寄せるよう促した点が異色だったと言えようか。
 家業を廃したとは言え、生活の場を他所に移したわけでなく、依然として家族と同居して家庭生活を営むのであってみれば、日常出会う問題がことごとく心を改める信心の訓練の種となって、金光大神にその信心成長の機会を与えつづけた。信心の成長はとどまるところを知らず、それは神の世界が開かれるのと裏表であって、明治初頭に至り政府の取り締まりに出会うや、祈祷呪術的な面よりも話して理解させる教導の面に重点を置くようになり、信心の境地の上にも世界人類の助かりを目指すまでに広がりを持つに至った。
 心でする行と仰せになったが、百日信行は、起居一切を通じて天地金乃神の願いを聞いて聞いて聞きぬいて、その願いに生きる修行であったのではなかろうか。
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