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<ご>御用
 神様のお仕事。
 一般に公の用向きをさして「御用」と言い習わしてきたが、「御用聞き」のように単なる用事という意味でも使われるようになった。
 信心でいえば、神様のお仕事以外に人間の仕事が別にあるわけではなく、一切が神様のなさるお仕事である。もともと労働は、神(全体世界)への奉仕であったのが、近代になって賃金を得るために働くというふうに、労働に対する考え方が自己中心の方向へ大きく転換した。その結果は、収入の多寡つまりお金が人間を価値付ける事態にまでなってしまった。
 人間が主人公であって、お金はその手段であるはずなのに、人間がその値打ちをお金で計られる、こうした人間に対する非人間的な仕打ちを打破する意味が、御用という考えには込められているということができる。
 普段「教会の御用」という使い方をしなれていると、いつしか御用とは教会の中の用事のように思い込んでしまう。そうではなくて、教会で御用に取り組むけいこをして、その姿勢でもってあらゆる仕事に向かうことが願われているのである。神様の御用は<ただ働き>が基本である。なぜかといえば、日々いのちを養って頂いていることへのお礼が土台だからである。
 では、信心する者は賃金の多寡を問うてはいけないのかという疑問が湧いてくる。もし労働者が低賃金に甘んじるとすれば、それは誰の利益になるのであろうか。人間らしい生活を願い求めて自らのレベルアップに努めることは、労働者全体の向上に役立つ御用である。
 なぜ教会に足が向かないのかと問われて、教会には用事がないからと答える人が少なくない。自分の側には用事がなくても、神様は人を助ける御用に忙しく、その手足を求めておられるのであるから、神様の用事を尋ねていくくらいの気にならないと、信心も進みようがない。きょうのいのちをどう生かしていくか。生き残りの一人だと自覚させられるところから、わがいのちにこめられた使命を果させて下さいと祈りつつ、答えを出すに忙しい、御用に明け暮れる毎日である。
 一言付け加えると、御用は<ただ働き>が基本だとは言いながら、神様はただ取りはなさらない。その意味は、取り組んだだけ確実に力(人間力というか)を付けて下さるからである。人間らしい人間になる、これほどの報酬は何をもってしても代えられない貴重なものである。
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