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<す>好き嫌い
 自分の好みに合えば好きといい、合わなければ嫌いという。その対象と自分との距離を近づけるか遠ざけるか、行動にもおのずと違いが生じるのが普通です。
 金光教祖金光大神が幼少時に養子に行かれて、養父母が好き嫌いを尋ねたところ、「麦飯が嫌い」と答えられたといわれます。当時、農民が麦飯でなく白米を食べるなど、相当困難な状況であったわけですが、養父母は麦を白米に換えて食べさせたとのことです。
 「好き嫌いをいうのはわがままだ」と、一概に切り捨てず、相手が置かれている事情に思いをいたして、対話を重ね距離を縮めることに努められた養父母の愛情をありがたく思います。
 好き嫌いというよりも、体質的に合わない、受け付けないということがありえます。金光大神もアレルギー体質なのか、蚊にさされても大変だったようで、それを表に出さずに辛抱すれば、一見丸く収まるかのように見えて、反対に強いストレスに押しつぶされ破綻してしまいかねず、ここはひとりで抱え込んでしまわずに、よい解決策を求めて対話するところから、自他と全体の立ち行きを可能にしてくれる道が開けるものと信じます。
 案外、喰わず嫌いではねつける場合もあります。経験のないことは面倒に思えたり、利害計算を踏まえて逃げる口実を並べたり、とかく自分の土俵を壊したくなくて、自己防衛に走るのが大方の動きなのでしょう。火中の栗を拾わせるのは、止むに止まれぬ愛情、助かってもらいたいという祈念。好き嫌いを越える神心の発動も、信心のおかげといえましょう。
 

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