(130)
<さ>差し向け
 金光教祖生神金光大神は、晩年に及んで、神の願い=人助けを実現するために差し向けられたと、自らの存在の意味をとらえられました。生神金光大神は取次の神であり、「みんなも神の子であるからには,生神ということはここに神が生まれるということであり、私がおかげの受け始め。あなた方もその通りにおかげが受けられる(つまり取次による救済者として差し向けられる)」と説いています。
 人が助かる上で必要な存在、救済者とは、あくまで助けずにおかないという熱意であり祈念であり、その身に引き受けて死をも辞さない、身代わりを買って出るほどの一途な願いに生きる人のことであり、教師であるとかないとか肩書を問いません。
 四代金光様は「出来ないからけいこをさせてもらうのじゃ」と仰せになって、日々新たなこととして練習に励んでおられたと伺います。日常の生活、目が覚めてから床に就くまで、一切を人が助かりますようにと念じて取り進めていく、差し向けられた者としての生き方の練習こそが、神と人の二人三脚、神人と書く信心のけいこなのでありましょう。
 神の広前は世界中とあります。どこへ差し向けられても、そこで取次ぎ助けができるように、助かりを願うご祈念修行を心がけていきたいものです。
TOPへ