(126)
<さ>祭詞
 祭典中に、神前あるいは霊前にて祭主が奏上する言葉。俗に「のりと」ともいう。
 祭典ごとに定型文が出来上がっていますが、祭主と神(あるいは霊)との関係で言葉にいのちが吹き込まれるよう、そこに工夫のしどころがあると言えます。
 取り分け霊神に奏上する祭詞に関しては、多くの場合、生前どういう人間であったかを描き出す部分がポイントとしてあり、作成者の力量が問われるところです。
 ある人物をどう描き評価するか、人によって描き出される人物像がすっかり変わってしまうことも珍しくありません。人それぞれの物差しで計測するのですから、出会った人の数だけ人物像が描かれるのも当然ありうることです。そして大事なことは、評価される人物以上に、評価する側の人間の関心や立ち位置、器量がそこに表わされてくるということです。
 人間ほどつかまえることのむつかしい生き物はありません。どのグループに属しているかで判断されることが多くあります。しかし、属性を越えた、その人物ならではの色が評価されてこそ、その存在が認められたことになると考えます。(色を嫌い色を消す訓練に明け暮れる集団の典型は軍隊であり、組織には大なり小なり兵隊が必要とされる面があります。)
 生活者として見れば、年齢を重ねるにつれて、結婚し親となってあるいは就職し地位が変化して、新たな舞台に立ち新たな役目を担って、これまで隠れていた潜在能力が表に現れてきます。伸びしろがいのちだと言っても過言ではありません。いのちが生まれて育ち、幾重にもご縁に結ばれて自らの役割と居場所を得、新しいいのちの生育に参画し、やがてこの世での働きを終えるまで、どのいのちにも取り替え不可能な価値を付与されている、そこを喚起することに努める必要があると考えます。
 今や個人情報の秘匿義務から、死者の履歴を詳細に述べることは憚られる時代となって、葬儀に際して奏上する祭詞の中身も変革を迫られています。生命的なるもののとらえ方と表現の仕方を一層訓練していかなくてはならないのだと思います。
 
TOPへ