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<た>大祭
 金光教の場合、春に天地金乃神大祭、秋に生神金光大神大祭を奉仕します。だからといって、奉斎主神として天地金乃神と生神金光大神の二柱を祀るわけでなく、コインの表裏のように一体と見ています。つまり客観的な仕分けをすれば別物と見えるようであっても、目の位置が低くなればなるほど重なって一つに見えることは別段奇異なことでもなんでもありません。
 天地金乃神は教祖生神金光大神を得て初めて人の世に言葉をもって自らを天地金乃神(万物を成り立たせる根源の神)であると名乗り出て、人助けたしの切願を届けることがおできになったのであり、生神金光大神の取次によって世の人々が天地金乃神の氏子としての人生を生きることができるようになったのであって、「天地金乃神、助けてくれ」というに及ばず、永世生き通しの取次の神・生神金光大神にすがりさえすれば人は神のおかげに浴し安心に立ち行くことができるとお誓いになっています。
 人間はそれぞれ神の分霊を頂いている神の子なれば、神になるのを楽しみに自分磨きをわが務めとなして一生たゆまず励むことができれば、このようにおかげが立ち人が助かりますよと教祖が手本をお示し下さっています。しかしながら自分磨きに取り掛かろうとしても、凡夫の身では耳の痛いことが聞けるようになる練習だけでもなかなか骨の折れることです。自分のどこを磨く必要があるか、そこを見極めることからして容易ではありません。「生神金光大神の取次を頂いて信心のけいこに励み、日々自分磨きをしなさい」と天地金乃神が救いの手を差し向けて下さっているご神意の並々ならぬところを頂いて、お礼申しお詫び申しお願い申す、そこに金光教の大祭の最大のポイントがあります。
 恒例行事という観点からは形通りのことが実行できればそれでよいわけですが、つねに問われるのはそれで神と人とが共に助かっているかという点です。信心は自分と神様の関係を深めていく営みとは申しながら、神様は自他を含めた全体の立ち行きを願っておられるので、ご縁といういのちのネットワークを手厚く生かし、人助けたしのご神願の一端を担わせてもらえる私に成長する、そのようなステップアップにつながる一回一回の大祭となるよう、願いを込めてお仕えすることが大事でありましょう。信奉者同士の仲間意識も深めながらなおかつ、未信奉者とも神縁に結ばれて共に助かりたいという願いが芽吹き育つように、身にあまる神のおかげに対してご恩返しを願いながら自分なりに人助けにつながる何かを引き受けさせて頂く練習の願ってもない機会です。出来合いの枠の中で収まっていては成長のチャンスを失います。大祭というからには無限大の願いを立ててぜひとも生まれ変わりのおかげこうむりたいものです。
 

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