(104)
<ま>負け手
 たたる神だと恐れて忌避する人間に対して、神の側から差し伸べられる救いの手のこと。
 人間は相手を敵か味方か見極めた上で、敵に対しては関係を遮断しあるいは支配的地位に立って相手の力が及んで来ないようにと工作します。神に対しても同様の向かい方をすることに何の問題も感じない人間の有様が、神からすると無礼千万、神を神と見ない態度にほかなりません。神の計らいを措いて人間が存在できるわけがないのですから。そういう無礼な人間を丸抱えにして、なおもその助かりを願って止まない神は、人間に対して関係を遮断するどころか、ますます人間としての働きができていけるように救いの手を差し伸べていかれるのです。
 他方、人間の世界では、支配の中枢により近づくことが自己の評価を高めるゆえんと信じられ、競争に明け暮れます。そうした世間の常識に反して、金光教祖金光大神は「負けて勝て」と教えています。自分(我=自己主張)を押し通せば周囲からは反感を買い、神様の願われる助かりの実現から遠去かってしまう。既成の秩序の頂点を目指して勝ち進むだけでは現体制の是認で終わってしまう。いかなる体制も秩序も所詮人間のこしらえたものであり不完全を免れない以上、よりよく人が助かることを願ってたえざる変革が求められていることに注目し、その要請に応えるところに本当の勝ちが実現すると説いておられるように、私には受け取れます。
 最初から闘わない敗北主義が信心に置き換えられてしまっては、神願の成就など望むべくもありません。「負け手」を出すのは、いかにしても神願の成就をと願う中から、大地がまさにそうであるように、いかなるマイナスも引き受けこれを糧にして新たなステージを創造するためであることをしっかり理解しておく必要があります。

TOPへ