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<ま>的なし信心
 何かの目的を果たすためでなく、生きること自体を最善のものにしたいと願って止まない信心。
 一般に信心と言えば、神仏のご加護を願いご利益に浴するための営みを意味します。しかし金光教祖金光大神は「日に日に生きるが信心なり」と仰せになっています。
 今仮に試験を受けるにあたって、合格を祈願するとしましょう。切実な願いですから、普段神仏に心が向かない人でも、頼む気になることは事実です。神仏を動員してわが利を図る。人間の計算から出たこの動きは、気休めの効果はあるとしても「片便で願い捨て」に終わることが目に見えています。
 金光大神は、試験が受けられるところにまで立ち至った、いのちの歴史全体を見通して、ここまでおかげを受けてきましたというお礼から始めて、これからもどうぞおかげを受けさせて下さいと願いながら、この試練を通れと教えて下さっているのです。「もうすでにおかげを受け通している自分が、神様のご恩にお答えさせてもらいたいと願いながら生きる信心」に導かれて、これに賭けるといってよいでしょう。この一番よい受け方で試験を受けて、どういう結果になるか。そこはもはや有利か不利かの計算を越えてしまって、お任せの心境です。
 受験という特別なことでなくても、毎日の同じことの繰り返しにも、それができるおかげを受けていることに思いを致して、一番よい起き方に始まり、洗面の仕方、着替え方、挨拶の仕方、参拝祈念の仕方、食事の摂り方、排泄の仕方、炊事洗濯掃除の仕方、世話整理整頓の仕方、乗り物への乗り方、通学通勤の仕方、仕事の仕方、学び方、診察治療の受け方、休み方、風呂の入り方、新聞テレビの見方、周りの人々とのかかわり方・・・をそれぞれ神様のおかげを受けておかげ様でと、お礼を土台にした一番よい仕方でするように努めていく。それが日に日に生きる信心の中身であると私なりに理解します。
 わが利を図ることが土台になっているかぎり、損得、有利不利の計算から離れることができず、誰かを出し抜いたり犠牲にしたりすることも避けられないでしょう。お礼を土台にすれば、たとえ損・不利を蒙っても誰かを助けるための資本として必ず役立てられますので、差し支えるということがなくなるのです。絶えず天地の親なる神様のお出ましを頂いていく信心は、「神人の道」とも表現されています。

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